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大連温故知新 当時のキーマンに聞く④古屋雄次氏
それぞれの視線で感じてきた当時の思い出を紹介します。
大連空港初の国際便として
ビジネス往来を促進
ビジネスクラスから満席に
車の通行が多い割には信号機が少ないことに加え、横断歩道や歩道橋がほぼなく、道路を横断する度にスリルを感じたものです。赴任早々は道路の前に来ると体が固まり、しばらく横断することができませんでした(笑)。
夜は街灯も少なく暗がりが多かったですが、日中はあちこちで新しいビルを建築していて、とても活気のある街の雰囲気が今でも印象に残ります。
日本の航空会社は全日空のみが週5便のスケジュールで、成田、関西、福岡に就航していました。当時は日本と大連とのビジネスが盛んであったため、ビジネスクラスから順に満席になる状況でした。空港においては、国内線のチェックインカウンターは便数、利用客数に対し少々手狭だったようで、繁忙時や便に乱れがあった際は相当混雑しており、利用者が入りきらずロビーの外まで溢れかえっていたこともあったと記憶しています。需要の読みより実体経済がより活発化した表れであったと思います。
現在の森茂大厦の前は人民路・国際酒店に支店を構えていた。当時の同僚とのショット。(写真中央)
時間と好奇心に動かされたバスの旅
赴任した頃はゴルフ場がなく、休日はバスに乗り継いで知らない場所にふらっとでかけたものです。当時は行き先(距離)により料金が異なっていたのですが、バスの乗り方や運賃の払い方も解らないままよくチャレンジしたなと思います。たっぷりの時間と好奇心があったからでしょうか。ある時バスから降りる際に大勢の人たちが一度に勢いよく乗ってきたため、降りるのに苦労したことを思い出します。
そんな中、大連カントリークラブが1996年8月にグランドオープンしました。その後週末はゴルフ三昧に。料金はメンバーで200元、ビジター平日600元、土日900元。キャディーさんへの心付けは不要でした。ゴルフサークル「大連72クラブ」と、東京三菱銀行が主催していた「連友会」のコンペにも参加し、ゴルフ仲間が増えました。
開発区・砲台山公園の展望台から。(写真右)
濱海路の北大橋(1987竣工)にて。奥様(右端)、ご友人夫婦と。(写真右から2人目)
もう一度食べたい大連の味
お気に入りのグルメは、お手伝いさん(阿姨)が作ってくれた水餃子。これはもう絶品級の絶品で、今でも世界一の味だと思っています。あとは「台湾彭園」(五五路付近)でのエビ入り餡をレタスで巻いて食べるものが大好きでした。
習い事では、大連外国語学院の先生に日中に事務所にきてもらい中国語を習ったり、桃源山荘のインドアテニスコートでテニスコーチから毎週レッスンを受けたり。日本に比べ費用の安さは非常に魅力的でした。
現在の大連に想う
1995年と比べると、現在の大連は相当発展していると思われます。緑の多さ、風光明媚な景色、新鮮な海産物など、大連の特徴といえる部分はしっかりと残し、自然と調和しながら発展を続けてもらいたいものです。親日的な街ですし、日本と中国の好関係を維持しながら日本企業、日本人としての取り組みにも期待するところです。
街の変貌を小耳に挟む中、南山路、七七街付近の日本人街の街並みを少しでも残しておいていただけるとありがたいのですが……。無理な注文かな。
在連中は、領事でいらした小原さん(前列中央)のお宅で「小原会」と称し、よく会合を開いました。今でもときどき集まる大連仲間です(前列右端が古屋氏)