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大連温故知新 当時のキーマンに聞く③渡邉浩氏
それぞれの視線で感じてきた当時の思い出を紹介します。
赴任からわずか1年で
暮らしやすさが向上した1995年
人々の活気が街の発展に
1994年までは日本の昭和20年代、95年に入ってから日本の昭和40年代にまで高度成長を遂げた感がありました。赴任時に到着した大連空港の前は道路を荷馬車(馬力)が通る光景に驚きました。市中心部の高層ビルと賑わいは先進国同様ではありましたが、一歩裏町へ入ると老房子が軒を連ね、庶民的な雰囲気を残す不思議な街だと感じました。
街は天津街を中心に、常に人出で大きな賑わいを見せていました。特に「下班」の時間帯になると、どこからこれほど多くの人々が出てくるのかと思うほど、毎日お祭り騒ぎのようでした。今思えば、この人々の活気も街の発展に繋がっていたのかもしれません。
市政府の呼びかけで、「北方の香港」をスローガンに清潔かつ賑わう街づくりを目指していましたが、市民もこれに協力し、街頭の美化は急速に進んでいったと感じています。
社会見学で老虎灘へ。バス停の前でポーズをとる当時の児童たち
大連初の外国人学校
日本人学校は小学生、中学生あわせ、生徒数32名で94年に開校。2年目より生徒数が膨らみ始め、幼稚園児もあわせ70名近くになり、より学校らしい雰囲気が増してきたと記憶しています。この年には理事会の努力、外務省の支援もあり、新運動場が整備され自校で盛大な運動会ができたことは、非常に大きな喜びでした。
また市政府など外の世界へ出る時、「校長」という立場の重みは絶大でした。当時日本人学校が唯一の外国人学校であり、大連市長や教育長と接することも珍しくなく、非常に貴重な体験ができたと思います。
付家庄校舎での朝礼の様子
社会見学で市内散策中の児童たち。勝利橋近くの郵電局(現在は中国聯通)前にて
遠足で森林動物園へ(96年)。95年までは青泥窪橋(現中心・裕景)にあったものが96年に現在の場所へ移転(最後列左端)
中国語交流の思い出
派遣教員は付家荘の秀月酒店別荘に居住。風光明媚な海岸地帯でしたが、街外れにあるため市内移動はいつもタクシー。ある日、いつものように車の手配のためフロントへ電話すると、受付嬢がケラケラと笑うのです。なぜだと問うと私の名前「渡邉浩」が「多便好」と聞こえるとのこと。辞書を見て意味を知るまでそう時間はかかりませんでした(笑)。
日本食では割烹清水に始まり、すべての店へ行きました。赴任当初はマグロの刺身がなかったのですが、95年から空輸が開始され食べられるように。また日系、韓国系のゴルフ場もオープンし始め、食や娯楽など大連での生活がだんだん充実し始めたなと実感するタイミングであったと思います。
新校舎と街に逢いたくて
任期を終え帰国後は、お世話になった方へのお見舞いや日本人学校10周年で2004年に大連を再訪しました。中山路をはじめ、中心地はヨーロッパの街並みと見間違うほどきれいになり、発展のスピードに驚きました。開発区と大連を結ぶ軽軌道、大きな高速インターチェンジなど、「北方の香港」は、整然たる開発整備という点で、本場を上回るのかもしれないと思いました。
昨年には日本人学校も20周年を迎えました。この春より開発区の新校舎へ移転し、さらに進化したであろう2015年の大連へ、近いうち訪れたいと考えています。