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大連温故知新 当時のキーマンに聞く②江原規由氏
当時の暮らしからビジネスにまつわるお話を紹介します。
日々が日系企業の開業式
進出ラッシュに沸いた時代
日系企業による「逆見本市」
JETRO大連の立ち上げのため赴任した1993年から95年ごろは、市街のあちこちに、やがて高層ビルとなる更地が多く、非常に見通しが良かったことが印象的でした。しかし、そうした都市開発で姿を消して行く大連名物のアカシアの木が少なくありませんでした。
大連は日本企業の進出ラッシュに沸き、開所式のない日はないといってもよいほど。そんな中、部品の現地調達をどうするかが、大連に進出した日本企業の悩みどころで、そこを解決すべく、「逆見本市」というものを立ち上げました。売りたいモノを展示するのでなく、日本企業が調達したいモノ(主に部品)を展示するのです。通常の展示と発想が逆だったため「逆展示会」、その後規模が拡大してからは「逆見本市」と呼ばれるようになりました。今の中国はどうでしょう。部品や中間財を日本はおろか、世界各地に輸出しています。20年前には想像すらできなかったことでした。
1996年より毎年星海広場・会展中心で行われた「逆見本市」にて。(壇上は江原氏)
心躍る出張ロードグルメ
東北三省など地方出張の機会が多く、ほぼ車で移動。今は高速道路と一級道路がありますが、当時は道なき砂利道が多く難儀しました。その際、道路わきの食堂で食べた新鮮な山菜など地元の山河珍味が忘れられません。味がどうこうというのではなく、その場の雰囲気でしたね。
ある時、本渓の食堂に立ち寄り、うどんを頼んだのですが、店主ご夫婦がうどん粉をこねるところから作ってくれました。味も格別でしたが3人で食べて10元ちょっと。さらにご夫婦が外まで出て手を振って見送ってくれました。その時の光景と味は今もよく覚えています。現在、食の安全がよく問題視されますが、そんなことを気にせず、「食在中国」を道端で楽しんだことが懐かしく思われます。
長江路を走る路面電車。(市政府裏手付近)
焼き芋に見る追憶の日々
休日には写真を撮りに歩き回ったものです。日々新旧交代してゆく街並みを残しておきたいと思い、ひたすら撮りまくっていましたね。
食事処では双盛園、天天漁港へよく足を運びました。窓際の席で、アカシアの木を眺めながら食べた心地よさが思い起こされます。お気に入りのB級グルメはあちこちで売っていた焼き芋。厳しい寒さの中、芋を割った時のほっこりした黄色い色は、周囲まで温めてくれているような安らぎがあったように思います。
また、毎週といってよいほど貿易大世界に出かけては生地を買い、オーダーメードでスーツやズボンをたくさん作りました。今も愛用しており、大連を身近に感じています(笑)。
1995年当時、大連電視塔(現観光塔)から街を望む。労働公園のサッカーボールオブジェもまだ建てられていない(江原氏撮影)
風土が生み出す大連っ子の魅力
大連の魅力といえば、そこに住む人々。今でも親しくお付き合いさせていただいている人も少なくありません。人が良く、嫌な思いをしたことがありませんでした。きっと大連の風土と関係があるのでしょう。今の急激な大連の変化は、どんな新たな大連人を生むのでしょうか。
現在、東京と大連の小学生の交流活動を行うNPOと関わる仕事もしています。文通交流が主ですが、最近では旅順九三小学から10人の児童が訪日しました。彼らを見ていると郷土・大連に愛着を持っていることがよくわかりますし、このような若者がいることで、大連には時代は変われど変わらないものもあるということでしょう。嬉しいことです。