-
大連温故知新 当時のキーマンに聞く①八日市邦宏氏
当時の暮らしからビジネスにまつわるお話を紹介します。
街の色が白黒からカラーへ
変貌したような大転換期
「北方の香港」を目指して
1995年は大連市政府の改革開放政策の下、「北方の香港」をスローガンに街づくりが進められていました。まさしく白黒の映像を一気にカラー映像へ変えていくが如く、街並みの大きな変貌と生活環境の画期的な改善が始まった頃であったと思います。星海地区再開発、道路建設・整備、駅前にあった動物園の移動、シャングリラホテル、スイスホテル、駅前の地下商店街(現勝利広場)等の工事着工もこの頃でした。
私が大連へ着任した93年頃は、未だ旧態依然とした中国が残り、人民服を着た市民も大勢見かけました。しかし95年頃になると、人民服を着た人など見かけなくなり、代わりにミニスカートや彩り鮮やかなワンピースで街を闊歩する女性、キチンと整髪しスーツを着こなす男性などを多く見かけるようになりました。
市内ではフライドチキンやハンバーガー、ラーメン等のファストフード店ができはじめ、さらには本格的な和食店が増え、西洋料理店、カフェなどがオープンし、食のバリエーションが豊かになったと感じました。確か天津街にはクレープ屋さんもあったと思います。
地下商場(勝利広場)を建設中の駅前広場(上)と大連駅前付近(下)
「サンガハイズ!」と人だかり
前年には大連日本人学校が開校されたこともあり、家族帯同にて赴任される駐在員も急増したことと思います。我が家も妻と3人の子供で赴任しました。一人っ子政策の中国にあって、休日に家族で街を歩いていると大衆の目を惹き、「三个孩子!」「三个孩子!」とあっという間に人だかりになったことも。そういえば、大連群英楼(天津街)の肉まんはとても大きく、おいしく、値段も安かったので(1元で4~5個)、子供達へのお土産によく買って帰ったことも懐かしい思い出です。
付家庄の海岸で遊ぶ息子と娘。沖の方にある島を子供達は「ひょうたん島」と呼んでいました(上)。ソフトボール大会(1994年)へ参加した「親方日の丸混合チーム」の面々(最前列左端)(下)
大連初の外国政府使節団
在瀋陽日本国総領事館 在大連出張駐在官事務所(現大連領事事務所)は93年に南山賓館(七七街)に開所。大連市にとって初の外国政府使節団の受入れとなりました。
当時は所長と私の2名及び中国人スタッフ数名(通訳、運転手)。旅券、証明業務、旅行者への対応で手一杯になり、日夜業務に追われる日々。本邦へ渡航を予定している中国人への査証発給等の業務については、所員の増員を待ち、やっと対応できるようになりました。同時に、これまで瀋陽の総領事館
まで出向かなければできなかった手続き等が大連で行えるようになり、非常に感謝されました。
1995年当時の事務所メンバー。前列左から3人目は初代所長小原育夫領事(同列5人目が八日市氏)
変わらぬ友好関係に感謝
95年といえば、1月に阪神・淡路大震災が発生し、大連の在留邦人は関西方面からの方が多かったため、日本に残してきたご家族の安否確認、また大連市民からも関西地方に渡航している家族・親族の安否の確認等の照会が多数寄せられたことも記憶に残ります。
数年前、中国各地の都市で大規模なジャパンバッシングが起こる中、大連の皆さんは変わらず友好的かつ良心的に在留邦人と接し、旅行者を受け入れていたとの報道がありました。きっと私のような大連在勤経験者の皆さんは、嬉しくまた心強く感じたことと思います。今後も大連市民と在留邦人との間に、より良い信頼関係と友好関係が作られることを祈念しています。